カミュ・著 『シーシュポスの神話』 再読


シーシュポスは神々より、「巨岩を山頂まで押し上げ、その岩が自重で転がり落ちたのを、また麓から山頂まで運びあげる」という刑罰を課される。

 

そして、その作業は、延々と繰り替えされる。


日本の民話でいえば、「賽の河原」であり、無益で希望のない、まさに労働にあたります。

 

カミュは、シーシュポスがこの作業に意識的に目覚めていることを、悲劇的であると記しています。

 

と同時に、「頂上を目がける闘争」ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分足り得る、シーシュポスは幸福なのだ…、とも。

 

この本を改めて手に取ったのは、日々の私達の日常も、多かれ少なかれ似たところがあると思うからです。


「不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。人間が自分の生へと振り向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、かれ自身の運命にあるのを、かれによって創りだされ、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがては彼の死によって封印されるであろう運命と変わるのを凝視しているのだ。」


秋の夜長、こんなことも考えてしまいます☆